Masuk九条玲司。
その名前を聞いて、結衣は数秒遅れて記憶の中に引っかかるものを見つけた。経済ニュースだったか、ホテルのロビーに置かれていた雑誌だったか、とにかく顔だけなら一度や二度は見たことがある。世界各国にホテルや不動産、医療関連企業まで抱える巨大企業グループの若い最高経営責任者で、三十代前半にして一族経営の頂点に立った男。冷静、合理的、妥協を知らないという評判ばかりが目立ち、華やかな社交界の記事より、企業買収や人員整理の記事で名前を見かけることのほうが多かった。
けれど、そんなことは今の結衣にはどうでもよかった。
目の前の男がどれほど有名で、どれほど金を持っていて、どれほど多くの人間に頭を下げさせる立場なのだとしても、エマが自分の後ろに隠れ、服の裾を握ったまま震えているという事実は変わらない。
「九条玲司さん、ですね。お名前は分かりました。でも、それだけではこの子をあなたに渡せません」
結衣がそう言うと、玲司は目を細めた。怒鳴りもしなければ、威圧するように声を荒らげもしない。ただ、相手の言葉を一度頭の中で分解し、それが自分にとって必要か不要かを判断するような目だった。
「彼女は俺の家族だ」
「それを確認できるものはありますか?」
「確認?」
「身分証でも、写真でも、何でもいいです。私はこの子と知り合って十分も経っていませんけど、少なくともこの子は、知らない人に追われていると怯えていました。あなたが有名人かどうかなんて、この際どうでもいいんです」
玲司の後ろに立っていた男たちの一人が、わずかに眉を動かした。明らかに「どうでもいい」と言われ慣れている相手ではないのだろう。
玲司は結衣ではなく、彼女の背後にいるエマへ視線を移した。
「エマ、こっちへ来い」
声は低かったが、先ほどより少しだけ柔らかかった。
しかしエマは動かなかった。
むしろ結衣の背中へさらに身を寄せた。
結衣はそれを感じ取り、ゆっくり振り返った。
『知っている人?』
手話で尋ねる。
エマは小さく頷いた。
『怖い人?』
今度はすぐには答えなかった。
少女の瞳は玲司を見ている。怯えているようにも見えるし、泣くのを我慢しているようにも見える。
やがてエマは、ためらいながら手を動かした。
『おじさん』
結衣は玲司を見た。
「叔父さん?」
「そうだ」
「だったら、どうしてこの子はあなたのところへ行かないんですか」
玲司の表情がわずかに硬くなった。
「それは俺が聞きたい」
「そんな言い方を子供の前でするんですか?」
「俺は事実を言っているだけだ」
「子供って、事実だけで動く生き物じゃありませんよ」
玲司の目が結衣へ向いた。
「君は随分と口を挟むな」
「そうですね。でも今さら黙るつもりもありません」
「エマとは今日会ったばかりだろう」
「今日会ったばかりだからこそ、何も知らない大人に渡す前に確認しているんです。あなたが本当にこの子の叔父さんなら、私が慎重なくらいで怒らないでください」
言いながら、結衣は自分でも少し言い過ぎたかもしれないと思った。
ただ、引き返す気にはなれなかった。
玲司はしばらく黙っていたが、やがて後ろに控えていた男へ顎を動かした。
「篠崎」
「はい」
四十代ほどの男がすぐに前へ出てきた。先ほどの三人とは違い、物腰は落ち着いている。彼はスマートフォンを操作し、数枚の写真を表示した。
「こちらをご覧ください。私は九条家で秘書を務めております、篠崎と申します。こちらが九条玲司様とエマ様のご家族であることを確認できる写真です」
結衣は警戒しながら画面を見た。
そこには今より少し幼いエマが写っていた。
隣には玲司。
そして、見知らぬ男女が一組。
男性は玲司によく似ていたが、表情はずっと柔らかい。女性は淡い金色の髪を肩まで伸ばし、エマを抱いて笑っていた。
家族写真。
そう呼ぶのが一番自然だった。
別の写真では、玲司が幼いエマを肩車している。今目の前にいる男からは想像しにくいほど不器用な笑顔だった。
「……分かりました。少なくとも、家族だというのは信じます」
結衣が言うと、玲司は短く息を吐いた。
「なら離れてくれ」
その言葉に、エマの指がまた強く結衣の服を握った。
「だから、そこなんですよ」
「何がだ」
「この子が嫌がっているのに、どうして『来い』とか『離れろ』しか言わないんですか?」
「他に何を言えと?」
「それを私に聞きます?」
「分からないから聞いている」
あまりにも真顔で言われ、結衣は言葉に詰まった。
皮肉ではない。
本当に分からないのだ。
そのことに気づいた瞬間、腹立たしさとは少し違う感情が湧いた。
この人は、エマをどうでもいいと思っているわけではない。
むしろ逆だ。
視線がエマから離れない。
さっきから彼が最も気にしているのは自分でも周囲の男たちでもなく、エマだけだった。
それなのに、何を言えばいいのか分からない。
結衣は一度息を吐き、エマへ向き直った。
『玲司さんのところへ行きたくない?』
エマは唇を噛んだ。
『怒ってる?』
首を横に振る。
『嫌い?』
また首を振る。
『じゃあ、どうしたの?』
長い沈黙のあと、エマは少しずつ手を動かした。
『おじさん、いつも仕事』
結衣は黙って見守った。
『おじさん、私を見ると、悲しい顔する』
その意味を理解するまで、一瞬かかった。
結衣は玲司を見た。
彼の顔から、ほんのわずかに血の気が引いたように見えた。
『私は、おじさんを悲しくする』
エマの手が震えていた。
『だから、いないほうがいい?』
「……違う」
玲司が、思わずというように声を漏らした。
エマが玲司を見る。
しかし玲司は、その先の言葉をすぐに続けられなかった。
結衣は胸の奥が痛くなった。
六歳の子供が、こんなことを考えていた。
自分を見ると大人が悲しい顔をする。
だから自分はいないほうがいい。
大人から見れば飛躍した考えでも、子供の世界では十分に真実になりうる。
「九条さん」
「何だ」
「ちゃんと言ったほうがいいです」
「何を」
「今のことです」
玲司は眉間に皺を寄せた。
「違うと言った」
「それだけじゃ分かりません」
「事実と違うのに、他に何が必要なんだ」
「気持ちですよ」
結衣は少し強い口調になった。
「六歳の子供に『違う』だけで全部理解しろって無理があります。どうして悲しい顔をするのか、どうして仕事ばかりしていたのか、本当はどう思っているのか、ちゃんと言葉にしないと、この子は自分で答えを作るしかないんです」
玲司は黙った。
結衣は続けた。
「大人って、子供は何も分かっていないと思いがちですけど、逆なんですよ。分からない部分を勝手に埋めるから、大人が思っている以上に変な方向へ考えます。しかも一度そう思い込んだら、それが本当だって信じてしまうんです」
「随分詳しいな」
その一言に、結衣は一瞬だけ口を閉ざした。
弟の顔が浮かんだ。
昔、病室で泣いていた弟。
自分の病気のせいで家族が大変になっていると思い込み、十二歳の子供が「僕がいなかったら、お母さんもお姉ちゃんも楽だったのかな」と笑った日のこと。
結衣はあの言葉を、一生忘れない。
「……そういう子を、昔知っていただけです」
それ以上は言わなかった。
玲司も追及しなかった。
しばらくして、玲司がエマの前へ歩いた。
結衣は反射的に身構えたが、玲司は少し離れた場所で止まった。
そして、しゃがんだ。
高級スーツの膝が駐車場の床に触れることなど、一切気にしていないようだった。
「エマ」
少女が顔を上げる。
玲司は困ったように眉を寄せた。
「俺は……こういう話が得意じゃない」
結衣は心の中で、それは見れば分かると思ったが口にはしなかった。
「おまえを見ると悲しい顔をしていたというのは、多分その通りだ」
エマの肩が揺れる。
玲司はすぐに続けた。
「だが、おまえがいるから悲しかったわけじゃない。兄さんと義姉さんのことを思い出した。それだけだ。おまえの顔を見ると二人を思い出す。兄さんによく似ているからな」
玲司は一度言葉を切った。
次に何を言えばいいのか、本気で探しているようだった。
「俺は仕事を減らすべきだった。おまえが何を考えているか聞くべきだった。だが、どう接すればいいのか分からなかった」
エマがじっと玲司を見ている。
「それと、仕事をしていれば余計なことを考えなくて済んだ。それはおまえのせいじゃない。俺の問題だ」
結衣は少し驚いた。
もっと取り繕う人間だと思っていた。
しかし、この男は不器用ではあっても、子供相手だからといって都合のいい嘘をつかない。
そこだけは、結衣にも好感が持てた。
「だから、いないほうがいいなどと思うな」
玲司は言った。
「それは困る」
結衣は思わず眉を寄せた。
もう少し言い方はないのか。
しかしエマは、小さく瞬きをした。
玲司はそのまま続けた。
「おまえがいなくなって、俺は今日、何も考えられなくなった。会議も途中で出た。取引先との電話も切った。おまえを探す以外のことは、全部どうでもよくなった」
周囲の秘書たちが微妙な表情をしている。
恐らく、本当に全部投げ出してきたのだろう。
「だから、勝手にいなくなるな。心配する」
最後だけ、声が少し低くなった。
怒っているのではない。
怖かったのだ。
そのことが、ようやく結衣にも分かった。
エマは長い間動かなかった。
やがて、小さく一歩前へ出た。
玲司の目が揺れた。
もう一歩。
けれど、そのまま抱きつくことはしなかった。
途中で立ち止まり、振り返って結衣を見る。
『一緒に来る?』
結衣は困った。
『私は帰るよ』
エマの顔が曇った。
『どうして?』
『私はエマちゃんの家族じゃないから』
言った瞬間、エマが下を向いた。
結衣はしまったと思った。
家族を失った子に、わざわざ「家族ではない」と言う必要はなかった。
『でも、また会えるよ』
慌てて付け加える。
『本当?』
『うん』
『明日?』
「明日?」
思わず声に出た。
エマは真剣だった。
結衣が答えに迷っていると、玲司が立ち上がった。
「明日来ればいい」
「ちょっと待ってください。どうしてあなたが決めるんですか」
「エマが望んでいる」
「私は仕事があります」
「時間を空けさせる」
「誰の?」
「君のだ」
「そんなことできませんから」
玲司は少し不思議そうな顔をした。
「必要なら勤務先に連絡する」
「絶対にやめてください」
「なぜだ」
「なぜって、自分の予定くらい自分で決めたいからです。世界的企業のCEOなら、人の予定表まで買えると思わないでください」
篠崎が口元を押さえた。
笑いを堪えたようにも見えた。
玲司はそちらを一度見たが、何も言わなかった。
「では、いくらなら来る」
「そういうところです」
「何がだ」
「何でもお金で解決しようとするところです」
「仕事を頼むなら報酬を払うのは当然だろう」
「仕事として頼まれていません」
「では仕事にする」
「勝手に職種を作らないでください」
結衣は頭が痛くなってきた。
この人とは、多分とことん噛み合わない。
悪人ではないのかもしれない。
エマを大切にしているのも本当だろう。
しかし、人間関係まで契約書と金額で整理しようとする癖が染みつきすぎている。
玲司はしばらく考えたあと、少しだけ声を落とした。
「なら、頼む」
「……はい?」
「明日、エマに会いに来てほしい」
結衣は目を瞬いた。
玲司の顔には、先ほどまでの命令口調とは違うぎこちなさがあった。
「報酬ではなく、俺から頼む。それならいいか」
意外だった。
この人にも「頼む」という言葉を使えるらしい。
結衣はエマを見る。
エマは期待を隠しきれない目でこちらを見つめている。
ずるい。
この顔を見せられたら、断りにくい。
「……仕事が終わってからなら」
エマの表情がぱっと明るくなった。
その笑顔を見て、玲司の目がわずかに見開かれた。
結衣は気づいた。
もしかすると、この人はエマがこんなふうに笑うところを久しぶりに見たのかもしれない。
「何時だ」
「たぶん六時半くらいです」
「車を出す」
「いりません」
「なぜだ」
「普通に電車で行けます」
「住所は知っているのか」
「知りません」
「なら車が必要だ」
「住所を教えてください」
「警備上の理由で簡単には教えられない」
「じゃあどうやって行くんですか」
「車を出す」
「……わざとやってます?」
「何がだ」
玲司は本気で分かっていない顔をしている。
結衣は深く息を吐いた。
「分かりました。車でいいです。ただし、勤務先の前まで黒塗りの高級車で来るのだけはやめてください。変な噂になりますから」
「車種まで指定するのか」
「目立たない車にしてください」
「うちに目立たない車があるか確認させる」
「その発言自体がもう腹立ちますね」
思わず本音が出ると、篠崎が今度こそ小さく咳払いをした。
エマの肩が揺れた。
笑っている。
声は出ていない。
けれど確かに、笑っていた。
玲司もそれに気づいた。
ほんの一瞬だけ、彼の表情から冷たさが消えた。
結衣はその顔を見て、少しだけ考えを改めた。
この男は、多分ひどく不器用なのだ。
人を愛していないわけではない。
どう愛せばいいのか知らないだけなのかもしれない。
それでも、面倒な男であることに変わりはなかった。
「じゃあ、明日」
結衣がエマへ手を振る。
エマは玲司のそばまで歩き、それでも最後まで何度も結衣を振り返った。
ようやく玲司の車へ乗り込むところまで見届け、結衣もタクシー乗り場へ向かおうとした。
そのとき、玲司が呼び止めた。
「相沢結衣」
「はい?」
フルネームを呼ばれ、結衣は振り返った。
「今日は礼を言う」
あまりにも素直な言葉だったので、結衣は少し驚いた。
「エマを見つけてくれたことも、守ってくれたこともだ」
「……どういたしまして」
「それと」
「まだ何かあるんですか?」
「さっきエマを追っていた三人については、こちらで調べる」
結衣の表情が変わった。
「あなたの人ではなかったんですか?」
「違う」
玲司の声が冷えた。
結衣は思わず、先ほどの三人がいた方向を見る。
もう誰もいなかった。
「じゃあ、あの人たちは誰なんですか」
「まだ分からない」
「警察には?」
「連絡している」
「エマちゃん、本当に大丈夫なんですか」
「今夜から警備を増やす」
「そういう意味じゃなくて……」
結衣は言葉を止めた。
玲司は分かっている。
さっきの三人が何者か分からない以上、エマが本当に安全だとは言い切れないことを。
その証拠に、彼の横顔は先ほどまでとは違っていた。
企業経営者の顔ではない。
何かを失うことを恐れている人間の顔だった。
「相沢」
「何ですか」
「明日、予定を変えてもらうかもしれない」
「だから勝手に決めないでくださいって言ったでしょう」
「そうではない」
玲司はわずかに目を細めた。
「あの三人が、君の顔も見ている」
結衣は息を止めた。
玲司は静かに続けた。
「もし彼らがエマを狙っていたなら、今夜あの子を守った君も、もう無関係ではないかもしれない」
雨音が、地下駐車場の入口から遠く響いていた。
結衣は急に自分の背中が冷えるのを感じた。
ただ迷子を助けただけだった。
そのはずだった。
けれど、どうやら自分は、思っていたよりずっと厄介なものに足を踏み入れてしまったらしい。
そしてその中心にいるのは、声を失った六歳の少女と、世界中に名を知られた冷徹な男だった。
第60話 父は家族会議に参加したのではなく、止めに来ていた 軽井沢の迎賓施設で撮られた古い写真に、白石真帆の父・孝一が映っていた。 本来なら、そこにいる理由がない男だった。 九条記念医療センターの元事務局長。病院への匿名寄付を扱っていた人物ではあるが、九条家の後継問題を話し合う非公式の家族会議へ出席する立場ではない。「真帆さんに確認します」 結衣が言うと、玲司はすぐ頷いた。「ああ。ただ、写真を見せて『父親は何をしていた』と詰めるような聞き方はやめよう」「分かってます」「彼女自身、父親から全部聞かされていたとは限らない」「玲司さん」「何だ」「最近、私が言おうとしてたことを先に言いますよね」「悪いか」「悪くないですけど、ちょっと悔しい」「なぜ」「私の役割が減るから」 玲司が少し笑った。「君には他にも十分ある」「例えば?」「俺が間違ったときに止める」「それは残ってるんですね」「多分なくならない」 自信を持って言うことではない。 結衣が呆れている横で、篠崎はすでに真帆への連絡手続きを始めていた。 * 真帆と繋がったのは、日本時間の昼過ぎだった。 英国は早朝に近い時間だったが、彼女はすでに起きていたらしく、画面の向こうで髪を簡単に束ね、湯気の立つマグカップを手にしている。『写真を送ってください』 結衣が軽井沢で撮られた画像を共有すると、真帆はしばらく黙っていた。『父です』「やっぱり」『でも』 真帆の
第59話 偽の婚約者は、結婚するために作られた女ではなかった 香坂美玲という名前を、玲司の祖父・征一郎は覚えていた。 ただし、「玲司の婚約者候補として」ではなかった。「英国から来た家族資産管理の助言者だったはずだ」 翌朝、本邸へ呼ばれた征一郎は、軽井沢の迎賓施設で開かれた七年前の非公式会議の参加記録を前に、珍しく自信のない言い方をした。 年齢のせいだけではないのだろう。あの事故を挟んだ時期の記憶は、誰にとっても出来事が多すぎる。何を事故の前に知り、何を事故後に聞いたのか、本人の中でも境目が曖昧になっている部分がある。「顔は覚えてる?」 玲司が尋ねると、征一郎は篠崎が用意した古い写真をしばらく見つめた。「この女だ。間違いない」 写真には、軽井沢の迎賓施設の玄関前で撮られた十数人の集合写真が残っていた。 中央には征一郎、その隣に美佐子。少し離れたところに桐谷がおり、端のほうに三十歳前後に見える女性が立っている。 香坂美玲。 玲司の婚姻候補として作られていた資料の写真とは、顔が違った。「やっぱり別人ですね」 結衣が言うと、美佐子が腕を組んだ。「そもそも私は、この人が玲司の結婚相手候補だなんて一度も聞いていないわよ」「会議では何と紹介された?」「英国側のファミリー・ガバナンス専門家。エレノアさんの母方資産にも詳しい人間だと」「誰が呼んだ」 玲司が桐谷を見る。 桐谷は逃げずに答えた。「私です」 結衣が驚いて振り向く。「桐谷さんが?」「はい。ただし、私が個人的に選んだわけではありません。ウェリントン側へ『圭司様に不測の事態があった場合の未成年後継者保護について助言者を派遣してほしい』と依頼しました
第58話 兄が死ぬ前から、俺は「次の社長」にされていた 翌朝九時ちょうど、ダニエルから暗号化された資料が届いた。 ファイル名は、昨夜知らされたものと同じだった。『K-17 FAMILY ACCESS』 玲司はすぐに開こうとはしなかった。 リビングの大きな窓から入る朝の光が、テーブルに置かれた端末の黒い画面へ反射している。エマはすでに学校へ送り出してあり、部屋にいるのは玲司、結衣、篠崎、それからオンラインで接続を待っているダニエルだけだった。「開けないんですか」 結衣が尋ねると、玲司は端末の前で指を組んだ。「開ける」「その割には三分くらい止まってますけど」「時間を計ってたのか」「たまたまです」「嘘だな」「半分くらい」 玲司は少しだけ笑ったものの、その表情はすぐ硬くなった。「兄貴が生きていた時点で、俺を『代替後継』として扱う計画があった。頭では、企業なら危機対応計画くらい作ると分かってる」「でも、自分の家族の名前で見ると違う?」「ああ」 玲司は素直に認めた。「兄が死んだあと、実際に俺がその位置へ入ったからな」 結衣は、すぐに「玲司さんのせいじゃない」とは言わなかった。 それはもう、何度も話してきた。 玲司自身も、以前ほど簡単には自分を有罪にしなくなっている。それでも、古い傷へよく似た形の資料を突きつけられれば、何も感じずにいられるわけではない。「じゃあ、一緒に見ましょう」「ああ」「途中で嫌になったら止めてもいいです」「君もな」「はい」 二人が同時に篠崎を見る。 篠崎は一度
第57話 七年間消えていた叔父は、エマに会わないと言った ダニエル・グレイヴスが少なくとも三か月前まで生きていた。 その事実が分かったからといって、すぐに居場所まで分かるわけではなかった。 ヴァレント側の回答は頑なだった。封印保管物の指定監督者について、本人確認が毎年行われていることは認める。しかし、確認場所、現在の住所、連絡先は、契約上の守秘義務により後見人である玲司にも開示できない。「生きていることは教えるのに、どこにいるかは教えられない?」 翌朝、結衣が届いた回答を読みながら眉を寄せると、篠崎は淡々と頷いた。「正確には、本人から所在情報の開示許可が出ていないためです」「なら、こちらから連絡を渡してもらうことは?」「それは可能とのことです」 玲司がすぐに口を開いた。「では、俺から面会を求める」 結衣は隣から玲司を見る。「エマちゃんのことも書きます?」「書く」「会いたがってることも?」 玲司の手が止まった。 以前なら、迷わず書いていたかもしれない。「……いや」「どうして?」「それを使って、会わせようとするのは違う気がする」 結衣は何も言わず待った。「エマが会いたいと思っていることは事実だ。でも、その気持ちを『だから出てこい』と迫る材料にしたくない」「うん」「まず俺と話す。そのあと、ダニエルが何を考えているか聞く。エマに会うかどうかは、それから本人にも聞く」 結衣は少しだけ笑った。「何だ」「いいと思います」「それだけ?」「今日は成長しましたねって言いません」
第56話 母を疑った兄は、最後に妹を信じた 事故の三日前、ダニエル・グレイヴスは、妹エレノアが「二度と娘に近づかないで」と拒絶した男と東京で会っていた。 その事実だけを見れば、疑おうと思えばいくらでも疑える。妹に隠れて接触していたのかもしれないし、エレノアとは違う思惑を持っていた可能性もある。 けれど、これまで何度も「分かりやすい証拠」に振り回されてきた結衣は、もう最初に浮かんだ答えへ飛びつく気にはなれなかった。「ダニエルさんが会った理由を先に調べましょう」 翌朝、篠崎が追加資料を持ってきたところで結衣が言うと、玲司もすぐに頷いた。「ああ。会ったという事実だけでは何も分からない」「成長しましたね」「それ、毎回言う必要ある?」「確認です」「何の」「元に戻ってないか」「君は俺の品質管理担当か」「不具合が多かったので」「朝から容赦ないな」 玲司は不満そうにコーヒーを飲んだが、以前のように結衣の言葉を跳ね返さなかった。篠崎も、二人の会話が終わるのを待ってから淡々と資料を開くあたり、完全に慣れている。「ホテル側の記録を確認できました。七年前のため映像は残っておりませんが、来訪者記録と客室電話の履歴が一部保存されていました」「ダニエルがエイドリアンの部屋へ行った?」「はい。ただし、宿泊者名義はエイドリアン・クロウではなく、マーカス・ウェルナーです」 結衣は眉を寄せた。「またその名前」「当時、業務用匿名名義として使用されていたことは、すでに英国側から確認されています」「面会時間は?」 玲司が尋ねる。「午後五時十二分から五時五十八分まで。四十六分です」「そのあとダニエルは?」
第55話 六歳の記憶を、証拠のために使いたくない「ママが言った。二度と、娘に近づかないで」 エマが手話で伝えた言葉を見た瞬間、玲司は反射的に次の質問をしかけた。「その男は、ほかに何を――」 途中で口を閉じる。 エマは写真の男を見たまま、両手を膝の上で握っていた。 つい数分前まで、水を飲みに来ただけだったのだ。寝間着姿で髪も少し乱れ、片方の靴下が足首まで下がっている。その六歳の少女を、大人たちは一瞬で七年前の事件の証人に変えようとしていた。 玲司はそれに気づいたのだろう。 画面を伏せた。「もういい」 結衣が玲司を見る。「玲司さん」「今夜は聞かない」 玲司はエマの前へしゃがんだ。「思い出さなくていい。さっき教えてくれたことだけで十分だ」 エマが不安そうに玲司を見る。『大事じゃない?』「大事だ」 結衣が手話へ変える。「だからこそ、無理に思い出させたくない」『でも悪い人?』 玲司は少しだけ言葉に迷った。「分からない」 以前なら、危険人物だと決めていたかもしれない。 だが今は、分からないものを分からないと言う。「お母さんが怒っていた理由も、その人が本当に何をしたのかも、まだ俺たちは知らない」 エマは伏せられた画面を見た。『私、忘れた』「忘れていい」『でも思い出したほうがいい?』 その問いに。 結衣の胸が痛くなった。「エマちゃん」 結衣も床へ膝をつく。『思い出せ







